<カバンノナカミ>
テレビや新聞に露出する機会が増えて、「オレンジ色が好きなんですか?」と聞かれることが増えた。
名刺もオレンジ、ネクタイもオレンジ、車いすもオレンジ。出版した書籍の表紙もオレンジ。
オレンジを選ぶ確固たる理由はなく、聞かれてもいつもうまく言葉が見つからずにいた。
カバンを開けば、パソコン、スマートフォン、ボールペン、イヤホン、ポーチ、財布。
気づけば、身の回りのあらゆるモノがオレンジだらけになっている。
<病室支店>
入院すると病院では、腕に識別バンドが付けられる。
昔から、これが嫌いで仕方なかった。ガサガサして、かゆいし、煩わしい。
だからこそ、外れる時、つまりは退院する時は、感動も一入だ。
2016年11月3日、病室支店を開設した。
ミライロの社員であり、高校時代の同級生でもあるホラタさんが、病院まで送ってくれた。
病室へ荷物を運び、一通りの準備が終わって、駐車場で見送った。
一人になると急に不安になった。寂しくなった。
看護師さんが説明に来て、例によって識別バンドを付けられた。
ほとんどの場合、バンドの色は白なのに、珍しくもオレンジだった。
腕に巻かれた、それを見ていたら、ほんの少しだけ勇気が出た。
<東京タワー>
起業して初めて上京した時、民野と二人、東京タワーを下から眺め、その大きさに感動した。
東京進出を決めて引っ越した時、一人、東京タワーに登り、煌々と光る街を眺め感動した。
東京で二度目の春を迎えた時、東京タワーに感動することがなくなった。
眺めることがなくなった。正確には、眺める余裕すら無くなった。左足の痛みが限界を迎えていた。
手術を受ける前日、病室で遺書を書いた。
手元の紙に涙が落ちないように、一枚一枚を慎重に、一文字一文字を丁寧に書いた。
ようやく書き上げた深夜2時、病室の窓から東京タワーを眺めた。
久しぶりに見た東京タワーは、あの日と変わらないオレンジ色で光り輝いていた。
<哀愁交差点>
手術当日。ずいぶん早くに目が覚めて、自分を落ち着かせるために、お気に入りの音楽を聞いた。
いつもなら前向きな気持ちにさせてくれる曲も、心を落ちかせてくれる曲も、病棟の雑踏と大きすぎる不安にかき消された。
「街の色は透明だった。オレンジ色の田舎の景色はどこにも見当たらなかった。
良いか悪いのか、前がどこかも解らなくとも、それでも走るしかなかった。」
ようやく耳に届いた曲を巻き戻して、また聞いた。
10年前、高校を休学して、育った町から電車で一人、大阪へ向かった。
新たな人生を歩むために、すべてを変えるために、一歩踏み出した。
少しずつ遠のく育った町の景色を見ながら、噛みしめるように聞いた。
僕の背中を強く押してくれたのは、あの日と同じ曲だった。
<オカンとミカン>
テーブルの上には、いつもミカンが置いてあった。
父も、弟も、僕も好き好んで食べることはない。
それでも、年中無休でミカンがある。
「私が死んだら、お棺にはミカンを入れて」
母の口癖だった。
影響されやすいのか、テレビドラマで誰かが死ぬシーンを見ると、決まって母は僕らに言った。
「なんでこんな身体で産んだんだ」
父や母をいたく傷つける言葉を残し、親元を離れた。
手術とリハビリを続けるも、甲斐も虚しく寝たきりの生活が続いた。
何度も病棟の屋上から飛び降りようとした。
三度目のそれが失敗した夜明け、病院の朝食は食パンとサラダ、スライスチーズ、そして、ミカンだった。
「自分のお棺には、なにを入れて貰えばいいんだろう?ミカンではないなぁ」
オレンジ色のコロンとした食べ物の皮を剥いていたら、いつの間にか死のうとは思わなくなっていた。
<バリアバリュー>
2014年。ミライロのロゴを新しくすることになった。
ある著名なデザイナーの方が協力したいと力を貸してくれた。
百案ものロゴがあがってきて、社員みんなで選ぶことになった。
僕はすぐに今のロゴを選んだ。
暗くなるはずの影が、明るくなっているところに惹かれた。
暗い部分に新たな光を、可能性を見つけていく。
バリアをバリューにするミライロにピッタリだった。
影の色は、なんとなくオレンジに決めた。
<原点>
幼稚園も、保育園も、一様に前例がないと通園を断られた。
行く場のない僕と弟は、障害児施設で幼少期を過ごした。
何度も何度も断られ、時に冷たい言葉を浴びせられるも、母は諦めることなく僕らのために駆け回った。
「ウチに来なさい。あなたの子はきっと大丈夫よ」
園長だった郷田先生の一言で、1994年、杉の子幼稚園への入園が許可された。
サッカーをした。プールで泳いだ。キャンプへ行った。そして、何度もケガをした。
それでも、写真の中の僕は笑顔で、隣にいる父と母も、弟も一緒に笑っていた。
2017年。テレビの取材で、母校訪問ならぬ、母園訪問することになった。
階段には、幼稚園には似つかわしくない、手すりがあった。
子どものための、小さな小さな手すりだった。
「としくんは、これを使って、階段を上がってたんだよ」
担任だった千草先生が教えてくれた。
手すりに触れて、グッと胸にこみ上げるものがあった。
すべての記憶が蘇ってくるようだった。
園内を見渡すと、手洗い場のタイル、トイレの壁、あらゆるものがオレンジだった。
驚いた様子の僕を見て、郷田先生が言った。
「としくんが来た頃から、ずっとこの色なのよ」
小さな手すりのおかげで、僕は歩き続けることができた。
心優しい先生たちのおかげで、楽しいことがたくさんあった。
僕が笑顔を覚えた場所は、オレンジの光が溢れていた。
「オレンジ色が好きなんですか?」
今は息をするように答えられる。
たくさんの感謝を胸に、その理由を。
それは、僕の行く先にいつも見えていた色だ。

講演会記念エッセイ「カバンノナカミ」2018年4月