僕の歯は。

朝、目が覚めると、なぜか泣いている。
そういうことが、時々ある。

映画「君の名は。」の冒頭である。透き通った声に心惹かれた。

 

朝、煮豆を食べると、なぜか歯が折れている。
そういうことが、年に二回ある。

僕の今朝の一コマである。歯と同時に心も折れそうだった。

 

ナースコールを押す。前に、じっくり考えた。

「すみません。歯が折れました」
・・・いや、わかりづらい。朝の忙しい時間帯に、要領を得ない連絡は避けるべきだ。

「すみません。煮豆を食べていたら、歯が折れました」
・・・いや、スベる。笑いを取りにいくわけでもないのに、得体の知れない不安がよぎる。

「すみません。朝食を食べていたら、歯が折れました。保管したいので、生食と容器を下さい」
・・・完璧である。歯が折れた時は、口の中に含み続けるか、牛乳に限る。乾かすと元に戻せないから。しかしここは病院、浸透圧が等しい生理食塩水がある。何度も歯が欠けた熟練者としての叡智が結集されたナースコールとなった。

プラスチック

午後、満を持しての歯科受診。ストレッチャーで、4階へ向かう。

「生食に入れて、保管しておきました」。ドヤ感を抑えながら。

「そうですか」。素っ気ない。イガラシ先生は、クールだから仕方がない。。。

「レジンが欠けたんですね」
「え??」

前に、プラスチックで修復した部分が欠けていただけで、容器共々、すぐに捨てられた。
馬鹿である。僕はプラスチックの欠片を、意味もなく丁寧に保管していたに過ぎなかった。

歯科受診を終えて、部屋に戻ると、ベッド移動のため、看護師さんが何人か来てくれた。
カンノさんがいた。夜勤明けでも、いつも明るくて、いろいろと頼みやすい看護師さんだ。

「どこ行ってきたんですか?」
「歯科です」
「どうしたんですか?」
「朝、歯が折れて」
「えー!なにを食べて?」

遂に、報われる時がきた。そんな気がした。

「いやぁ、それが・・・まさかの煮豆で」
「えー、煮豆で?!」

他の看護師さんを気にしながらも、カンノさんは既に笑い始めている。

「私もおせんべいで欠けたことあります!」
「僕もクッキーはあったんですけどねー」

カンノさんが身の回りの整理で残ってくれて、話は継続した。

「フフッ、煮豆ですよね?」
「歯と心が折れました。もうどの食べ物にも勝てる気がしません」
「アハハ。ビックリですね、フフフ。あ、ごめんなさい!ホント」
「いやぁ、これから先の将来が思いやられます。ホント」
「大丈夫です!何回でも、4階に連れていきますよ笑」

大満足である。
誰かに笑ってもらえることほど、救われることはない。
こうして、「僕の歯は。」は幕を閉じた。

 

こんな毎日を過ごして、一ヶ月が経った。

 

「気付けば」や「あっという間」という修飾は、まるで相応しくない。
僕にとっては、「ようやく」である。長い、長い一ヶ月だった。

全体の予定で見れば、まだ折り返し地点にも差し掛かっていない。
にも関わらず、どうやら病院食のローテーションは早くも一巡した。

手術後に食べた、ちらし寿司が出現した。

ちらし寿司

味がしないおでんも、また出現した。

おでん

驚愕である。ちらし寿司地獄である。おでん地獄である。

会社を設立した2010年の中頃、手術は簡単なもので、すぐに退院できた。
3年前の心肺停止は、大変だったけど、自分で身の回りのことができた。

今回は、わけが違う。一ヶ月が経った今も、これから先も、寝たきりだ。
ベッド上での排泄は、自分でスムーズに処理できるようになった。
これは、もはや気合いで成し遂げた。自身の尊厳を守るために(笑)

でも、できるようになったことは、それくらい。
歯ブラシを洗うこと、洗濯をすること、飲水をコップに注ぐこと、背中を拭くこと、足先を拭くこと、、、
寝たきりで、身動きが取れない以上、やはりできないことの方が圧倒的に多い。

無いものより、今あるものを。できないことより、できることを。
見つめ、数え、感謝する。

少しでも充足を感じられるように、事ある毎に、自分自身へ言い聞かせる。
こうした日々を、昔から一日一日積み重ねて、少しずつ僕は僕になった。

病室の天井を眺めていると、よく昔のことを思い出す。
特に、幼少期のことを多く、そして鮮明に。
幼稚園の時も、小学校の時も、よく入院していた。

注射が怖くて泣いた。足が痛くて泣いた。
医者に囲まれて泣いた。ただ不安で泣いた。
家に帰る父や母の背中を見ながら、泣いた。
夜、静かになった病室で、寂しくて、泣いた。
なんとなく未来を考えて、やっぱり、泣いた。

鮮明といっても、思い返せば、泣いていた記憶しかない。
辛かった。寂しかった。よくわからないけど、全部悲しかった。

今、同じように病室にいる。当然だけど、もう泣いていない。
20年以上も経って、こんな程度だけど、でも、これが僕の成長なんだと思う。

あと何回、ちらし寿司を、おでんを食べなければいけないんだろう。
憂鬱だった夕食も、「歯にやさしければ、まぁいっか」と思えるようになりそうだ。


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