4月26日、僕は深く眠った。4月27日、僕はさらに深く眠った。
4月29日、僕は目を覚ました。5月1日、僕は眠れなくなった。
そんな僕の数日間を綴ったお話です。
<4月26日 8時15分>
看護師さんが「行きましょう」と呼びに来た。
いつものくせで、くしゃくしゃの布団を直し、
なにがあってもいいように、ベッド周りは片付けた。
4M階に移動して、扉を開けると大勢の看護師さんが待ち構えていた。
いつものおんぼろビジネスホテルも、年末に家族でいった旅館でも
こんなに多くの人に迎えられることはまずありえない。
一番奥の部屋だった。たしか3番。
ベッドには自分で移った。服を脱がされた。
左手からラインを取って、すぐに麻酔で落ちた。
<4月27日 13時00分>
手術は7時間もかかる大手術でした
手術が終わり抜管したけど自発的な呼吸が出来なくて、
再度挿管して人工的に呼吸させるようにしたとのこと。
一時は酸素の値が50パーセントになり、
高濃度の酸素を人工的に送り今は100パーセントにはなっている。
けど自分の力で呼吸は出来ない。
挿管してるから目が覚めると苦痛になるので鎮静剤で眠っている
俊哉の身体にはチューブがいっぱい
顔は腫れて 唇も腫れて痛々しい
俊哉 あなたは何も 知らずに眠っている
きっと予定ではとっくに目が覚めて痛みに耐えている頃だったんだよね
ICUにいるはずではなかったのにね
今はただ呼吸状態が回復してくれるのを祈るしかないよ
<4月27日 14時45分>
人工呼吸器装置による苦痛をなくすため鎮静剤でずっと眠っている・・
このまま自分で呼吸すること忘れてしまったらどうしよう、・・・
不安になり、ひたすらお父さんと二人でモニターを見つめている
そんな中 突然に俊哉の顔が動いた!! 嬉しかった
<4月27日 15時15分>
高濃度の酸素を流してようやく酸素濃度は100パーセントを維持している
先生が診にみえて酸素吸入濃度を70パーセントに下げて様子見ることになる
<4月27日 17時00分>
面会時間になり集中治療室に面会
顔面に何本もチューブが固定されている
固定のテープが血だらけで出血を物語っていたが張り替えられすっきりして
挿管チューブの横に固定されていたバイドブロックも外されていた
<4月27日 17時15分>
バイドブロックがなくなりすっきりしたのか
ストローで吸うような動きがある
少しでも動いてくれと嬉しかった
<4月27日 17時30分>
先生の診察。血ガス分析の結果が良かったようで
酸素吸入濃度を70パーセントに下げて様子見る
<4月27日 18時00分>
酸素吸入濃度下げても酸素の値は98パーセント位で安定
バイタルチェック後に体位変換したら口腔から血が吹き出て、
ナースコールし吸引、一時的に酸素と血圧ダウンして、
またモニターとにらめっこ
吸引が苦しかったようで苦悶の表情していた
苦しかったのはかわいそうだったけど反応があることに一安心した
面会時間が終わり、後ろ髪引かれる思いで病院をあとにした
<4月28日 14時10分>
酸素吸入濃度50パーセントに下げてあった
自発呼吸は昨日より時間が長くなっていた
酸素飽和度は99~100パーセントで安定してる
看護師さんから
鎮静剤の加減で覚醒し意識表示で出来るようになったと聞いて安堵
俊哉!!と声をかけてみたら頷いた
「手術頑張ったね」と声をかけたら大きく頷いた
嬉しくて涙が流れた
点滴している手を動かして何か書きたいと意識表示した
震えながら書いた文字は
「ミライロ」「連絡」
連絡して欲しいと・・・
分かたよと伝えると頷きながら「民」と「洞にも」
分かたと伝え急いで二人に連絡をした
<4月28日 14時40分>
今度は筆談ボードに「へへいつかわ」と言葉になっていなかったが
すぐに元の病棟にいつ戻れるかと聞いていることを察し看護師さんから
管が抜けたらと説明してくれたら俊哉はボードに「yes」と書いた
まだ筆談は続き
「何日たった」
お父さんが3日たったと説明
「いたみどめはいつ」
看護師さんが24時間持続して点滴から入れていることを説明してくれた
痛みますかの問いに「little」と書いた
思わず看護師さんと二人で安心からかみつめあった
こんな時に英語が書けるなんてすごい!!
まるで簡単に書いたみたいに思えるかもしれないけど
震えながら書いているので一文字
一文字 やっと書いていた
こちらの言っていることを理解していた
右手の親指を立てて「了解!!」
とOKサインをしてくれた
本当に良かった
<4月29日 14時00分>
集中治療室に面会
口の中に入れてあった二本のドレーンがなかった
一本づつ管が減り嬉しかった
ベッド上で足浴をしてもらった
けど俊哉は眠ったまま・・・
自発呼吸は回数は安定してきたがあまりにも浅すぎて
目を凝らさないとわからない
モニターの波形と数値が頼り
ここ数日でお父さんはモニターに表示される波形や数値の見方を覚えて
上がった下がったと一喜一憂している
面会に来てする事と言えばモニターとにらめっこ
人工呼吸器の強制呼吸の回数は一分間に8回
昨日より圧は低くなっていた
<4月29日 14時30分>
看護師さんたちの動きが慌ただしいかった
「緊急の患者さんが入室するので部屋を移ってもらいます」と説明があった
集中治療室の中の個室からカーテンで仕切られている部屋に移動した
鎮静剤投与のためもうろうとしていると思ったら
目をバッチリ開けて自分の顔を確かめるように触っている
口から入っている挿管チューブに
ふれながら「これは何か」というような表情をした
「ここから酸素送っている大事な管」と説明すると頷いた
筆談で「今日は何日」
4月29日であることを説明
頷いたと思ったら今度は「明日は何日」と聞いてきた
明日は4月30日と答えとまた頷いた
また「じゃあその次の日は」
5月1日だよと答えた
正常な思考回路になっていなかった
頷いてはいるが理解出来ないようだった
まるで認知症の高齢者が健在過去未来の時空空間を
理解できず不安になっているかのようだった
<4月29日 15時00分>
不思議な感覚だった。
大きな会議室でMTGをしているかと思えば、
パッと病室に切り替わる。
調査や研修の仕事をしているかと思えば、
パッと病室に切り替える。
その繰り返しを続けて、いよいよ現実に戻った。
目が覚めた。
スマホには、母からたくさんのメッセージが来ていた。
手術から自分の身に何が起こったのかを知った。
<4月30日 10時00分>
ICUの対応は早い。ずっとここでいいと思った。
大石さんが良い人。この人だけを頼った。
オフィス下の居酒屋の店長さんに似ている。
吸引も丁寧にやってくれる。言葉使いも丁寧。
ICUを出るとき、筆談ボードで十二分に御礼を伝えた。
<4月30日 14時00分>
個室に移った。生き地獄はここからだった。
鎮痛剤の影響で、今のところ痛みは皆無。
問題は手術の内容や経過についてだった。
病室に移ってから話しますね。と告げられた。
<4月30日 15時00分>
手術失敗。
正確には成功したけど、容態悪化で事態が変わった。
とにかく、レントゲン次第で今後が決まるとのこと。
<4月30日 23時30分>
レントゲンは、明日の14時半からになった。
痛みがある。それ以上に不安の方が強かった。
夜中に胸が痛み出し、狭心症の疑いがでた。
レントゲンやらエコーやらで忙しくなった。
結局、一睡もできなかった。
目を閉じても見えるのは幻覚で、羊なんて言ってられなかった。
痛み止めが強いからだろう。幻覚は朝まで続いた。
Wikipediaで大して興味のないことを調べこんだり、小説を読み進めたり、
出来もしないのに囲碁のアプリをダウンロードして碁をしてみたり。
そんな感じで朝になった。
<5月1日 9時00分>
寝てないのに、チャレンジの連続だった。
起き上がって、車いすに乗った
車いすで処置室まで行き、回診を受けた
自分の力でトイレにいくようになった
水とお茶を飲むようになった
<5月1日 12時00分>
予定より早くレントゲンに呼ばれた。
12時過ぎに呼ばれて、先生たちの同伴で撮影にいった。
<5月1日 13時30分>
浅井先生と金先生が来た。レントゲンを持って。
じっくり話し込んだ。たくさん質問をした。
再オペはしない。リハビリで修正していく。
運が悪かったし、運が良かった。そう割り切れた。
生きているんだから、 なんとかなるね。と。
<5月1日 22時30分>
今夜も寝れない。
今回のオペで変わったことが2つある。
身体のいたるところが穴だらけになったこと。
そして、自力で眠れなくなったことだ。
麻薬性の鎮痛剤は昨日で終わった。
幻覚もなくなったのに、それでもまだ眠り方がわからない。
<5月2日 20時30分>
髪を洗ってもらった。それくらい。
病み上がりの人間とは、
こうも話題がないのかと驚く。
リハビリは順調。まだ、先は見えない。
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この数日、思い出すだけで、全身が痛む。
全身麻酔のオペなんて、今日まで何度も向き合ってきた。
その内の1回が、死ぬまで忘れられない1回になった。
意識不明になって、このまま目覚めないかも、
なんて説明も受けて、身の凍るような思いをしたと母から聞いた。
この3日間が、きっと僕を変えた。
言葉では言い表し難いが、自分の見え方が違う。
垣内俊哉をだいぶ遠いところから見るようになった。
眠り方を忘れたとか、一気に3キロ痩せたとか
声がでなくなって、言葉が選びづらいとか
小さなことを言い出せばキリがないが、確実に違う。
生死を彷徨うって、よくいうけど、
「そー、俺も眠れなくなった。」
「あー、私もかなり痩せたよー。」
「あー、人生観変わるよね。」
こんな会話ができるようになるのは、
もう少しいろんなことが落ち着いてからだと思う。
いろんなことがあった。
痛みも不安も、目を背けたくなる出来事も。
「でも、いいんだ。今、僕は生きている!」
そんなことが言えるように、なった。